2007年7月11日水曜日

殿様の生活(3)

江戸時代、元禄のころになってやっと関東にも1日3食の習慣が伝わりました。
それまでは1日2食、1日に食べるご飯は1人大体玄米で5合も食べていたようです。
まさに日の丸弁当のようなイメージでしょうか。ちょっとのおかずでがさがさと玄米ご飯を押し込んで食べていたようです。
ちなみに加賀百万石というように米の取れ高を表す石という単位ですが、
1石でおよそ一人が1年間に食べる米の量だったようです。
1石で10斗、1斗で10升、1升で10合。1合で茶碗2杯およそ180mlです。
そして、大名の所領の広さ・経済力の目安として「加賀100万石」とか「川越10万石」など、城・陣屋の土地名と合わせて石高を併称します。この場合は100万石の米の収穫量のある土地を持っているという意味です。
水田にかける租税の徴収率は4公6民ならばその4割、40万石となります。これは藩全体の量なので、
そこから家老などの家臣の所領もあるので殿様の取り分は随分目減りしそうです。
しかし一人ではいくらがんばっても1年で食べられる米は1石がせいぜい。家族や直接雇用の陪臣・女中に与える分を引いた残りは米問屋に売却し、現金収入となります。その現金で味噌、しょうゆ、野菜、魚などの副食品や蝋燭、薪、炭、衣服、履物、などの必需品の購入、家屋の修繕や刀槍・武具・馬などの武士本来の装備品の整備などに当てなければなりませんから武士をやっていく以上はかなりぎりぎりの生活であったことと思います。後には米の品種改良や新田の開墾、肥料や農機具の発達や技術の発展で米の生産力は上がる一方でしたから米の市場価格も下落を続け、武士の現金収入も下降するばかりでした。
また、米に関してはワインやウイスキーのように年代物にプレミアがつくような商品性はありませんし、新米が初秋には喜ばれていました。いまでも新米が入荷すれば幟を立てたりしてアピールしてますよね。
古米の保管にも苦慮するほどなので、悪代官が人質にした村娘の帯をくるくると解きながら「ふははは。良いではないか、良いではないか!」と戯れながら農民から余分に米を巻き上げたとしても、古くならないうちに売却してるはずです。
 つまり、よほどの貧乏人でない限り大多数の国民は米を主食にしていた事は想像できますので、腕の良い船大工のおとっつぁんが病気で雑穀もろくに食べられない生活で「ゲフゲフ・・・すまねぇなぁ、体さえ元気なら・・・」と謝り、小股の切れ上がった器量良しの娘さんが「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」、と慰めるシチュエーションはレアケースであったのではないかと思います。
当時は大工というのは技術職の高給取で、1日か2日働けば家賃に充てるほどのお金はすぐに工面できました。
現実としては武士が赤貧洗うが如くのたけのこ生活で、庶民は初鰹や秋茄子を争って買い求め季節の味を堪能するような、時代劇と真逆の状況だったと考えます。大久保の有名なツツジも、元は逼迫した家計を支えようと同心の家族たちが庭で栽培を始めたのが元になっています。

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