2009年2月16日月曜日

江戸期の鎌倉

以前僕が住んでた鎌倉。
歴史の教科書にも「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と紹介され、
室町から戦国にかけても鎌倉公方をめぐる関東の騒乱など三百年程歴史の表舞台に出てきました。
市内大船の玉縄城に本拠を構えた玉縄藩の転封ののちは明治時代になるまで歴史の記述がすっぽ抜けてました。
江戸時代の鎌倉はどこかの大名の領地だったのか、それとも天領になったのかよく分からないままでした。
江戸時代の鎌倉を検索しても「観光地として江戸市民の人気があった」とかの記述はヒットしましたが、
なかなか解答が見つかりませんでした。

しかし、偶然国土交通省ドメインのPDFがヒット、そのなかに

⑥江戸時代
江戸時代、鎌倉は多くの寺社領と天領、旗本領が入り混じり、鎌倉とその周辺を支配するために代官所が配置されていた。また、幕府が段銭や棟別銭を寺社領にもかけたために、特に幕府の保護を受けていた鶴岡八幡宮、東慶寺、英勝寺、光明寺、円覚寺、建長寺などを除いてその勢いが衰えた。


という記述をようやく発見。やっと長年の疑問が解けました。
また別にヒットした資料にも

代官がめまぐるしく替わった為、庄屋たちはその対応に追われた

という旨の記述も出てきました。
鎌倉の話ではありませんが、旗本領とされた村には徴税権者の旗本が3人配置されるようなところもあったようなので年貢米の分配などが大変だったようです。
この辺の記述から察するに江戸期の鎌倉はあたかも平安時代に戻ったような様相だったのかもしれません。国衙領、貴族の荘園、寺社の私領、在地領主が開墾した新田などが入り乱れている様とあまり変わりがないような気がします。それらを強奪しようとする地頭や、領地の境界があいまいなために年に二度三度と年貢を取りにこられないだけ平安時代よりはましだったのかもしれないですが。
円覚寺などはこれに加えて明治初期の廃仏毀釈でさらに勢力を弱めて、門前を横須賀線の線路で分断されてしまったんでしょうか。

しかし自分で出かけて一次資料に当たることもなく、自宅でこういう調べものが出来るとは便利な世の中になったもんです。

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