2007年8月2日木曜日

殿様の生活(5)

2日に1回の入浴が終わると、浴衣を脱ぎ紋付の羽織袴へと着替え、表へと出座し政務を見る事になります。
これは基本的に毎日です。日本では太陽暦が採用されるまでは基本的に休日という概念がありませんでした。ただし江戸時代以降の各藩や幕府で役付きの武士はその限りではありませんが。江戸期、役職に就く武士は慢性的に人余りの状態でした。戦国以来の常備軍的性格のままの家臣団の編成ですから、政庁の運営に必要な役職に対して家臣の人数が多かったのです。幕府においては、役職についていない旗本・御家人は、小普請組(こぶしんぐみ)などに一まとめに便宜的に所属していました。普請(ふしん)というのは現代の言葉に置き換えれば「土木工事」です。幕府も裕福ではありませんから働かない家臣を養っておくわけに行きませんし、地震や台風などで壊れた河川の護岸整備や浚渫(しゅんせつ)、道路の補修、城の石垣の修繕、石川島など埋立地の築造など土木工事は日常的に必要でしたのでその任に当たらせたのです。
例外的に三千石以上の知行を持つ大旗本は寄合としてまとめられ大名並みの待遇を受けていました。
 幕府各機関のトップたる「奉行」はそのポストに対して複数の人物が任命されていて(大体定員の2倍から6倍)月番、輪番制などで月替りで交代で務めていました。自分の担当の月は毎日勤務で他は休みです。江戸の町奉行には北町奉行所、南町奉行所と庁舎が2箇所にありましたが(一時期、中町奉行所が置かれて3箇所)担当地域が分かれていた訳ではなく、片方が機能している間もう片方は休みだったのです。休みといっても実際は新規の訴訟などを受け付けないだけで前月の残務整理などが随分あったようです。ところで江戸町奉行というのは町方(民政)を担当し、寺社方(そのまんま、寺・神社の所有地ですな。律令制以来、寺社の所領に対しては守護不入の大権が認められていた名残があり、織田信長の叡山焼討ちなどで次第に世俗権力に屈服しましたが町方とは別の寺社奉行が監督しました。大寺院では寺侍と呼ばれる警備員的性格のさむらいを雇うところもありました)、大名や旗本らの所有地(大名の江戸屋敷は厳密には土地は幕府からの貸与で、建築物のみ藩または藩主の財産でした)以外の司法・警察・行政を担うという激務で朝4時ごろから登庁して仕事をする奉行もいたそうです。
一方、幕府の常備軍たる番方は小姓組、大番、小十人組などの編成に分かれ江戸城内の各所に詰めていましたが、特に何もしません。日勤組は朝、火事装束、雨具、蝋燭や火打袋、提灯、筆硯などを入れた挟箱をもち登城し、昼に持参した割子(弁当)を食い、夕方退出します。夕方からの夜勤の組は鎧櫃も追加され、儀式のある日には長裃も荷物に追加されます。現代から見ると、その何もしない時間に訓練しとけ、と思ってしまいますが。15代将軍・徳川慶喜が長州征伐の前に旗本達に馬揃えと呼ばれる閲兵式をさせたそうですが、日常の移動も輿ばかりになっていた旗本たちは乗馬もろくに出来ず落馬して怪我をしたり、馬術に自信のなかった者は隠居届けや病気療養を言い出す者が続出するなど散々な有様だったそうです。実際にご先祖が着てたであろう当世具足などとっくの昔に使い物にならず、慌てて買い入れた鎧は床の間の飾りにこそふさわしい、騎射戦が主流だった源平合戦の頃のような大鎧であったため着てるだけで息も切れ切れでした。対峙した薩長軍の主流はすでに鎧など捨て去り、新式のライフル銃を担ぎ軽々と戦場を移動する歩兵となっていた時代です。
 
 うちの親の実家にも鴨居に槍がかけたままになっており、聞くと「天狗騒動(水戸天狗党の乱)のときに拵えたもの」とのことでした。鴨居とほとんど同化しそうなぐらい煤けているのでひょっとしたら幕末以来誰も触ってないような気もします。

芸州広島藩に話を戻すと、初期の頃は領内の訴訟などじかに見ていたこともあったようですが、時代が下がるにつれて権限を下に委譲してきたため幕末ごろは表で政務を見る時間は1,2時間で済む様になっていたそうです。

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