2007年8月14日火曜日

殿様の生活(6)

参勤交代にて江戸にいる殿様は月の内一日、十五日、二十八日と五節句などの祝日に江戸城へ登城し、将軍の拝謁を受けることになっていました。将軍も大変ですが、大名たちも大変です。将軍の側から言えば、朝八時には大広間に出座し御三家、御三卿、親藩、譜代大名、外様大名、交代寄合、諸役人、高家、御番衆、法印・法眼位の絵師・医師・観世太夫(能役者)らに順番に拝謁を賜らないとなりませんでした。次から次に挨拶を受けねばならないので、「ちょっとトイレ」というわけにもいかなかったかも知れません。

大名の側から見ると、将軍が出座する八時には柳間や帝鑑の間などの定められた控室にいなければならないのですが、控室に入るにも順番が決められていて、来た順に入れるわけではありませんでした。更には登城にも順番が決められており、先に着いてしまって門前で待っていることなども当然無作法とされたため、登城の経路の要所や自家の直前に登城する大名家の門前などに足軽を配置して数種類の扇子などで合図を送りタイミングを同調しなければいけなかったのです。登城で使用する門も大手門と桜田門と決められていたので混雑を極めたことでしょう。門より内は輿から降りて徒歩で向かいますが、駕籠に乗っている間は草履を履きません。降りる際に草履取りの小者が持参した草履を履くことになりますが、小者は身分が低すぎて殿様の駕籠脇には近づけません。近づかずに駕籠のところへ草履をそろえるには投げるしかないのですが、これには熟練のものが特に選ばれ、きちんと草履が揃うよう投げてよこしました。きっと、毎日草履を投げる練習ばかりしていたことでしょう。門より内に連れて行ける人数は供頭、草履取り、挟箱持(はさみばこもち)、陸尺(ろくしゃく)持、笠持程度で残りの供の侍や足軽は大下馬、供待と呼ばれた門前の区域で殿様の帰りを待ちました。基本的に待ってるだけでこの間は何も仕事はないので足軽や中間には博打を打つものもいたし場所取りでのけんかや供の侍を目当てにした甘酒や寿司の売り歩きが来たり大名行列目当ての見物人が武鑑(現在でいうガイドブック。大名の官位、家紋、詰の間、行列の特徴・例えば薩摩藩島津家では乗物の前に2本、後ろに1本の槍持を配置した三本道具である、などが記されていた出版物。)を片手に物見遊山したりと巨人戦の後の水道橋駅のような有様だったことでしょう。日本人の時間を守る特徴はこの江戸城登城で普及したのではないでしょうか。
大手門あるいは桜田門より輿を降り徒歩で控室へ向かっている殿様一行ですが、城内の下乗橋で更に供の数が少なくなります。例外的に国持ち大名についてはこの下乗橋までは輿などの乗物で来れることになっていましたがここより先は徒歩となります。橋を越えると江戸城の本丸区域となり三の御門、中の御門、中雀門とくぐると本丸御殿に到着。控えている刀持に太刀を預け指定の控室へと進みます。控室では茶が出るわけでもなく座布団もなし。もちろん火鉢などの暖房すらありません。殿様の生活は忍耐の連続です。
拝謁の順番が来ると次の間で平伏、将軍の側に控える老中より名を呼ばれ、平伏したまま膝行で進み顔も上げられずに拝謁が終了。将軍は老中の着座位置より一段高い御簾のうちにいますが、大名は顔を上げられないために実は将軍がいるのかいないのかなど判らないのです。万が一面(おもて)を上げよ、と声がかかっても礼節上一瞬体を起こすのみで、恐縮しているていですぐ平伏しなおすのが礼節でした。貴人を見る、というのは日本の礼節上最も失礼なことだったのです。遠く飛鳥時代には貴人を見ると目が潰れる、とまで言われていました。どうせ大名も顔を上げられないので将軍は時々いなくなったそうです。トイレだったのかもしれませんが結構失礼です。

拝謁が終わっても屋敷に帰宅できるわけではありません。登城と同様、下城にもまた順序が決められているので順番が来るまで何も出来ずに待っているだけです。浅野家では下城の順が来るのは昼ごろになっていたそうですが実は朝食もまだ食べていないので空腹で仕方なかったそうです。他家ではいったん帰宅の後再び行列を整えてあいさつ回りをするところもあったようですが浅野家では江戸城の帰りに老中、御三家、御三卿へのあいさつ回りを済ませてしまったとのことです。それにしてもお供の人数こそいい面の皮です。大手門、桜田門の外で待機している大多数は八時前から昼過ぎまで主君の帰りを待つ間どこへも行けませんし、なにより雨や雪の日にはことさら難渋したことと思います。武家の奉公人というのは頭数ばかりでなんら生産性のない職業ですから平素から雇っておくのも経費がかかりすぎますので中間や小者については口入屋と呼ばれる業者が必要なときだけ人数を供給する、人材派遣方式が発展したりしました。

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